gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

映画 殯(もがり)の森

観終わって、「アーティストの定義」のことを考えた。

ものをつくるには、設計図に従って、我を捨てて、忠実につくる職人と、設計図なしに、もしくは設計図をつくりながら手を動かしてつくるアーティストがいる。(これは実際に職人と呼ばれているか、アーティストと呼ばれているか、とは別の話)

映画も同じように、きちんと脚本を書いて、それに従って、忠実につくる職人的なつくり方と、脚本では細部を詰めずに、その場で撮れる映像によって、内容を変えていくアーティスト的なつくり方とがあるだろう。

私はただつくられた感じがするものがきらいだ。きっちりつくられているものに対して感心はするが、感動はない。心が動くためには、そこに、自分だけの発見がなくてはならない。できあがったものに求められるものは、つくり手の意図の周辺に漂う多様性である。それが実現されているものが好きだ。

そのような意味で、ドキュメンタリーは好きだ。現場で撮れる映像によって、内容が決まってくるとすれば、である。しかし、実際のドキュメンタリー番組は、つくる側の脚本通りにできあがるように、例えば、インタビューのコメントなども都合がいいものだけが採用される、ということだってありうる。もしそうなら、脚本通りのフィクションとなんら変わりがない。むしろ、フィクションではない、としている分だけ、有害である。

「殯(もがり)の森」は、最初、ドキュメンタリーかと思った。話し声が聴きとりづらかったこともあって、内容もよくわからないままに進んでいったので、フィクションであるという確信を得るまで、時間がかかった。

認知症の老人の行動に、ひたすらついてゆく若い介護士、という展開なので、次が見えない。二人と一緒に、自分もただ森を彷徨いつづけることになる。

森の中の光、湿度、暑さ、雨、風、濁流・・・。老人の歩くがままに、私もそれを経験する。そのうちに、老人は、行動の目的を達せられるなら、死んでもいい、と思っていることに気づく。というより、死ぬためにここに来たのである。それは、映画の冒頭に出てくる、和尚の法話で「生きるには二つある。一つはただ生きていること。もう一つは生きる意味があるということ。」とある中の後者の意味である。愛する妻の33回忌。魂が遠くへ行ってしまう前に、老人は妻に会いに行かなければならなかったのだ。そこに生きる意味のすべてを賭けたのである。

この映画のつくられ方は、私には、これからの映画のひとつの理想的なかたちに思えた。映画とはなにか、という議論ができるほど、私は映画のことを知らない。しかし、このドキュメンタリーのようなフィクション映画が示すリアリティは、間違いなく私の心を動かす。

与えられたものの中で楽しむことが完結されてしまう、ディズニーランドのような世界を、心は必要とするだろうか。見つけよう、という精神なくしては、それを観た意味を見い出せないこのような映画を私は求めている。

職人的60%、アーティスト的40%。それくらいの割合ではないだろうか。(前にも書いたが、流行るお店をつくるためには、職人的78%、アーティスト的22%くらいで行きたい。)

「こうしゃんなあかんってこと、ないから。」という映画の中のセリフそのままに、この映画はつくられたのだろう。