年に2度か、3度は、森敦の「意味の変容」を読みたくなる。半年くらい前に、この本に絡めて、グリッドフレームという会社を立ち上げるまでをブログに書こうとしたが、途中で断念していた。この本の言わんとしていることが、よく分からなくなってきたからだ。
今日、久しぶりに第1章を読んで、すっきりとしたことがある。たぶん、この理解も、次に読むとまた別のかたちに変わるのだろうけれど。さしあたり、そのときに自分が掴んだことを書いていく他にない。
戦う相手を見失って、ただ無邪気に生きる人間をここでは「壮麗なるに似た蛇」と呼んでいる。その蛇に、否応なく襲いかかるもの。例えば、それは重い病であったり、貧困であったり、近しい者の死であったり、不当な扱いであったりするだろう。そのようなものに抑圧され、内側へ閉じ込められることによって、戦う蛇、つまり、「壮麗な蛇」に変わる。
私たちは、戦いの中では、常に勝利を目的とする。しかし、勝利をおさめた後にも、必ずかたちを変えた次の戦いが待っている。そのことに気づかなければ、また「壮麗なるに似た蛇」に逆戻りだ。
革命に成功した国が、必ずしも幸福を手に入れることに成功していないのは、次の戦いの覚悟ができていない人が圧倒的に多いからだろう。
物理的な生命とともに、精神的な生命がある、とかつて書いたことがある。私はそこで、この精神的な生命を、「創造力」と呼んだ。
例えば、スタッフ003は、あるとき、「つくれないのなら、死んだ方がましだ」と言ったことがある。このときの「つくる」が、そのまま創造力のことかどうかはわからない。しかし、少なくとも、003は、物理的生命を守るためだけに生きているのではない、と宣言したのだ。
私にとって、創造力は、物理的生命に匹敵するほどのものだろうか。戦う相手として、自分を内側へ閉じ込めるほど、大きなものだろうか。
言うは易し、である。それが、命をかけられるものでなければ、すべては嘘である。
もし、幸運にもそれが命をかけられるものであったとして、一度戦い始めれば、その戦いに決して終わりはない。