2011年。フランス。
「アーティスト」という言葉について敏感な私が、この映画を観た理由はこれに尽きる。・・・なぜ「アーティスト」というタイトルをつけたか?
無声映画から、トーキー映画への変遷の時期。無声映画の制作にこだわる主人公は、新聞のインタビュー記事で「私はアーティストだ」と答える。
本作の中で「アーティスト」という言葉が出てくるのは、このほんの一瞬の見出しのカットのみだ。
つまり、流行りに乗らず、今までの手法で感動作をつくろうとする主人公がアーティストとして描かれているのだろう。
かつて新しい技術の誕生は、あらゆる古いものを置き去りにしてきただろう。
ラジオに取って代わったテレビもそうだ。
だが、ラジオは今でも残っている。中心的な存在ではなくなったが、現在も必要とされている。
では、無声映画はなぜつくられなくなったか。
それは、台詞がないということに積極的な価値を見い出すことが困難だからだ。情報量が少ないほど、映画を理解するには観客はより想像力を必要とする。興行収入を上げることが前提である大衆映画に、わざわざ無声映画を選ぶ理由は今後も見つからないだろう。
だが、ヒットを狙わずに、価値の高い映画を撮るということなら、無声映画を選ぶつくり手もいるだろう。そのとき、その人はアーティストと呼べるかもしれない。
映画史家や映画ファンの多くは(当時も後世も)、1920年代後半に無声映画が芸術として最高潮に達し、その後のトーキーは芸術性という面ではそれに遥かに及ばなかったという。(wikipedia)
これを読むと、トーキーが映画を変えた、というよりも、ハリウッドが映画の存在価値を変えたのかもしれない、と思う。映画「アーティスト」では、ハリウッドが舞台になっているため、上記のことが伝わってこない。
この映画の主人公もアーティストたらんとしていたわけではないように映る。単に古いメディアに固執した過去の人のように描かれている。
「アーティスト」というキーワードでもっと切り込んでほしかった。