アメリカの大学で建築を学んでいるとき、いつも設計のプロジェクトはひとりずつのプレゼンテーションで終わった。
それは言葉が得意ではない留学生にとっては、自分の存在意義を周囲に示す唯一の場ではなかったかと思う。大げさでも何でもなく、自分の存在を賭ける場だったと思う。
プレゼン前夜は徹夜があたりまえだった。だから、プレゼンの後は倒れ込むように眠った。
大学にプレゼンという形式がなかったら、確実に私は今の仕事をしていなかっただろう。
形式をきらう若い人たちがいる。自然に自分をわかってもらえればよい、という。形式は、ともすれば美しくないそうだ。
形式の美しさが問題となる。それは、つまり洗練の時代に生きているということだ。
私が建築を学んでいた頃、形式の美しさなどどうでもよかった。プレゼンの場にあったものは貪欲なまでのエネルギーだけで、洗練はどこにもなかっただろう。
人から生きているというエネルギーが伝わってこないにもかかわらず、形式は美しくなければならないだろうか。