赤い蛇の目の 傘をさして
それはまるで絵のように
あの人が 私を振り向く (赤い傘)
京都の大学に通っていた頃、この歌のような美しい風景を見たくて祇園の町を歩いたことがある。(もちろん、そんなに都合よくはいかない)
ふきのとうの歌詞は、曲の始まりがその後に比べてダントツによいという印象がある。
ふつう歌として成り立つためには、3番くらいまで必要だという常識がある。私の想像では、ふきのとうの歌は、曲の一部が天から降ってきて書き始めるのではないか、と思う。だから、その部分がダントツに良くなる。しかし、3番までつくらねば曲として売り出せないため、頭で考えた歌詞をメロディにのせていく。だから、全体で見るとあまり完成度は高くないのではないか。
ポップスは歌が3番くらいは必要、と誰が決めたのかは知らないが、ふきのとうのようなタイプのつくり手は、1番だけでよいのではないか、と思う。
おそらく、他のつくり手についても同じようなことは言えて、1番だけよい歌は世の中にたくさんあるのだと思う。
司馬遼太郎が「世に棲む日々」で高杉晋作の辞世の句について書いている。
おもしろき こともなき世を おもしろく
まで晋作が詠んで、次が出てこないままに亡くなったので、看取ったお坊さんが、
すみなすものは こころなりけり
と下の句を付け足した、という。上の句は実に晋作らしいが、下の句はうまくまとめたようで面白みに欠ける、というようなことを書いていたと思う。
これも五七五七七が辞世の句と決まっているから生じたことである。
文字数は、人によって、または、フレーズの生まれ方によって、合う合わないがある。ポップスの歌詞は、商業ベースに乗せるために、創作の文字数がある程度限定されているが、極端に短い歌なども受け入れれば、もっといい歌が生まれるのではないだろうか。