私は通りを歩くときに、すれ違う人の顔をめったに見ない。なぜなら、見るという行為が、人対人においては、攻撃的なものであると知っているから、としか言いようがない。
「何じろじろ見てんだよ」と怒る人間がいる。他に「眼を飛ばす」とか、「メンチを切る」とかいう言葉があるように、見る者は見られる者より優位に立っている、という共通認識が暗黙のうちに成立している。
殿様は、「オモテを上げーい」とひれ伏す人間に声を掛ける。許可を与えられなければ、殿様の顔を見ることさえできない。その間、殿様は好きなだけ相手のことを見ることができるのである。
つまり、権力者は「見る人」である。王様も、殿様も、どんな人間の顔でも、なんのためらいもなく見ていただろう。
陽向を見ていて思うが、乳幼児もまた「見る人」である。興味のある全ての人間を、なんのためらいもなく見つめる。
私が成長していく過程で、最初に失ったものは、この人の顔を「見る」ということであったろう。社会性を身につけることは、直視できない顔ができるということに等しい。
昭和天皇を描いた「太陽」という映画で、天皇がどこか子供のように無邪気に見えたわけは、「天皇」=「見る人」であったからではないだろうか。
王子として育てられた人物には、大人になってからも、おそらく子供に近い部分が残る。