私が「壊れゆくかたち」を初めて夢中になって探し回ったのは、15年も前のことである。
すべての壊れてゆくものが、私の心を揺り動かした。
そのとき、私は建築を学んでいた。つくることを学びながら、つくられるものよりも、壊れてゆくものに惹かれていた。
昨日、映画「アラビアのロレンス」の砂漠について書いたが、壊れゆくものの行きつく先は「砂漠」である。それは、エントロピーがこれ以上増大できないところまで増大してしまった場所である。その場所の「清潔さ」に私も惹かれたのだろうか。
いや、私が惹かれたものは、壊れゆく状態の中にある。与えられた意味が引き剥がされ、見る者それぞれにとって新たな意味が垣間見える瞬間を捉えようとして、じっと目を凝らす。
それは、醜く、それゆえに、美しい。
醜さを伴わぬ美しさなど、取るに足りない。つくろうとして、ものをつくると、このような取るに足らぬものばかりが現出する。
「砂漠」もそうである。砂漠は、すでに、単に美しいものに過ぎない。