物語
この表面を何の説明もなく見せられて、嫌悪感を抱く人はどのくらいいるだろうか?
タクマクニヒロさんの写真集「ペンキのキセキ」もファインダーで覗き込んだ世界は、現実の物語を捨象する力を持つことを示すものだ。
ダウンタウンの若かりし頃の漫才で、レポーターが豚肉の生産農家を訪ねる設定のものがあった。レポーターが調理された豚肉を食べようとすると、生産農家がそれはかわいがっていた豚で花子という名前の肉だと説明し、レポーターが口に入れようとする度に、生産農家が「はなこー!」と絶叫するものがあった。これも食べるという行為がある物語を捨象することなく成り立たないことを示しているが、みんなはそれこそを笑うのだ。
世間は、笑ってよいことと笑ってはいけないことを区別する。ビートたけしやダウンタウンをはじめ、多くのコメディアンたちも、それに対する挑戦として笑いをつくってきたんだろう。
それは社会を良い方向へ導いただろうか?
SNSはむしろ、その区別を強化してきただろう。ダメな方に区別された者には、容赦なく攻撃を加えていいことになっている。場合によっては、人が自殺するまで攻撃は続く。
ともあれ、物語を捨象する力を、人が幸せになる方向へ使いこなすこと。それがぼくの使命じゃないか、と思っている。
冒頭の写真は、焼け野原になった輪島朝市の鉄板をクローズアップしたものである。
海を走る
昼前に起きて元気のない陽向を見て、思い立つ。「海に行こう」
一仕事を終えて、家族3人で午後の白里海岸へ。夕暮れ前の九十九里の景色は、いつにも増して神々しい。
このところ、体の動きが緩慢になっている陽向と浜辺を歩いて、砂浜に円を描いて相撲。まだ本調子ではないが、負けたくない気持ちで食い下がってくる。(本調子なら、ほぼ互角)
母親と二人、前を歩く陽向。
その後、ぼくがサッカーボールを蹴りながら追い越していくと、陽向が一緒に歩く母親に「走ろうか!」と言って、走り始める。
自分から走り始める陽向を見るのは、どのくらいぶりだろう。
そこから20分近く3人で走り続ける。
陽向の躍動を後ろから見て九十九里を走る。
陽向のパスポート写真
彼が困難な状態にあるときに撮ったパスポート写真。
後になったら、このくらい眼差しを笑えるだろう。
錯覚
鉄板が助けを求める人の群れに見えてくる。
輪島朝市に未来を探す
焦土。焼野原。
焦土と呼ばれる場所をこの目で見たことがかつてあっただろうか?テレビや映画ではたくさん見てきた。この写真をメールすると、妻から「ガザかと思った」と返事。
ぼくはかつてスクラップヤードを「誰が来てもおかしくない」空間だと感じた。そこにはもちろん混沌があった。他に、混沌があるものとして、例えば祭りがある。祭りも「誰が来てもおかしくない」空間だろう。
さらに混沌には、こういう焦土がある。被災地。戦地。これらには、不幸がまとわりついている。
だが、これらそれぞれを絵に描くとどれも同じようになる。
ならば、このような不幸がまとわりつく世界を、誰が来てもおかしくない世界に変えることはできないだろうか。
熱で溶け落ちたフロントガラス。
遠景。
近景。切り取り方で、伝わり方も変わるはず。
震災後につくられた骨組を通して見る。
しばらく歩き回っていると、過呼吸になっている自分を感じる。自分に圧力が押し寄せてくるように感じる。だが、それも自分がそう感じているだけなのか?
まだ、明確な答えは見えないけれど、目標はできた。あとは試行錯誤を繰り返すだけだ。