猛暑と呼べるのは、一年にせいぜい2週間くらいと思えば、この暑さを愉しもう、という気にもなってくる。
日々の暮らしでは、永遠に感じられる猛暑は、もう峠を越したところだと統計は教えてくれる。
よし、がんばろう!
統計、というものの良さはこんなところにある。
猛暑と呼べるのは、一年にせいぜい2週間くらいと思えば、この暑さを愉しもう、という気にもなってくる。
日々の暮らしでは、永遠に感じられる猛暑は、もう峠を越したところだと統計は教えてくれる。
よし、がんばろう!
統計、というものの良さはこんなところにある。
ぼくらの畑の中で、成長が目立って遅いものがあった。
カボチャである。
だが、今日1週間ぶりに行ってみると、カボチャの苗が10倍以上に成長している。
これまでとは逆で、他の成長を圧倒している。爆発的、といってもいいだろう。
カボチャの神、降臨といった感じだ。
この、それぞれの野菜が放つエネルギーの時間差は、畑の中の音楽を聴くようで美しい。
ぼくらが表立って意識していないことが、どんどん外部から力を受けて、実現されていく。
人生は、大半がそうやって進んでいくものだ。
妻は、陽向の家庭教師の出現によって、部屋の改装計画に夢中になっている。
夢中になることがなくて、ぼんやりと時間を過ごす陽向に、中学入試という壁が外部からやってきた。
来週から、知人が家庭教師をしてくださることになった。
なんともありがたく、素晴らしいことだが、陽向はこの変化に対応できるのだろうか?
8
試行錯誤
東京から離れたつくり手たちは、
そこへ閉じ込められたのか?
それとも、
そこで解放されたのか?
言えるのは、そこで
かれらは、試行錯誤をひたすら繰り返していた、
ということだけだ。
7
果てしないもの
物理的に、果てしないものを目の当たりにするのは外部においてだ。
内部においては、果てしないものをただ心に浮かべることしかできない。
ぼくらが、不確かな人生を手探りで生きているのはこのためだ。
希う心を手放すことなく生きていけるのも、きっとこのためだ。
6
ガランス色
村山槐多(かいた)の描いたガランス色。
生きている証。
無彩色の空間で、このガランスの在り方に向き合う。
5
他者の眼
家の中の個々の部屋をプライベートと呼ぶならば、
それらをつなぐ通路はパブリックな役割を受け持つ、少しにぎやかな空間だ。
個人の家とはいえ、家に他者の眼を意識する空間は必須だ。
他者の眼と自分の眼は、いつも外側からと内側からの逆を向いたベクトル同士のつりあい関係にある。
つまり、他者の眼なくして自分の眼などない。
4
時間。
長い間、ずっとそこにあったこと。
無数に人が踏みつけたこと。
何度かモノを落としたこと。
塗料が飛び散ったこと。
水をこぼしてしまったこと。
時間に、人間の営みを感じる。
3
ひかり。
消えかかっているかのような、
守るべきものとして在るとき
それは美しい。
2
ろうそく。
少し空気が動くとゆらめく、小さな光。
消えることのないよう、両手でそっと包み込む。
かすかな熱をてのひらに感じる。
1
洞窟(ほらあな)に籠りたい。
これは、自分の住処に求める最も原初的な願いかもしれない。
外部から遮断されて、守られている場所。
内部である場所。
本当の暗闇。
生まれる前に、きっとそこにいたような。
そして、そのときにきっとそうしたように、目をつむったまま、目を凝らしてみる。
すると、本当の暗闇なのに、ろうそくで灯したような熱がそこにあるのがわかる。
それはだんだんと大きくなって陽の光のように感じることもある。
朝、東山七条の三十三間堂からスタートして、清水寺、二寧坂、知恩院、平安神宮、哲学の道、法然院、銀閣寺、京都大学というコースで、18000歩を歩く。
陽向は途中で暑さのためか鼻血を出したけれど、結局、「もう歩けない」と言ったのは妻の方。
夜は、鴨川の納涼床。学生時代は憧れの場所だったけれど、今は若者が愉しめる場所になったようだ。
白鷺がすぐ横で魚を捕っていた。
さて、三十三間堂の千の仏像に向き合う時間は、なんとも素晴らしい。
空間がつくられて、仏像が置かれるのではない。仏像によって、成り立つ空間。
どのような美術館でも、ここまで展示物が空間そのものである場所はない。
2日前のKZ邸の引き渡しのときにKZ先生がおっしゃっていた「子供も押し黙ってしまう空間」だ。
朝は諏訪の温泉・片倉館、それから久しぶりの京都へ向かう。
家族3人で訪れるのは初めてだ。
鴨川を歩く。大学時代、よく走った場所だ。
30年が過ぎて、あの頃とは、何が変わって、何が変わらないのか?
日本は、ずいぶん変わった、と言われる。
コロナで人が少ない京都。いつもの10分の1の人出らしい。
静かな視線を注げる、久しぶりにはよい機会。
アパート近くの電話ボックスが、まだ在った。
次に訪れるときには、なくなっているかもしれない。