「引きこもり」と呼ばれる人が50歳を過ぎて、お金だけは困らない状況が周囲によってつくられている記事をネットで読んだ。
その人が、「私が生まれてきた意味はなんだったのでしょう?」と語る。メディアはそれを重い問いとして、印象付けようとする。
しかし、きっと本人にとって、この問いに切実さはないのではないか。
ほとんどの人にとっては、お金に困らない状況にあることの方がずっと大事なのだ。
ぼくは「生まれてきた意味」を知るために生きようとしてきたし、できるだけ多くの人がそのように生きられることを目的として、生きてきた。
けれど、その考え自体にはほとんどの人からの同意を得られたとしても、意味とお金とを二者択一として捉えて、当然のように意味を捨てる人をぼくはたくさん見てきた。
「生まれてきた意味」も「生きていけるためのお金」も、どちらも第一優先すべきものだ。これは、理想ではなく、現実である。そうでなければ、世界はよくならない。
だが、国や大きな組織は、国民のすべてが「生まれてきた意味」を第一優先することを望んでいない。自分の頭で考える人が増えると、統率しにくくなるからだ。大多数の人はただ盲従してくれた方が都合がいい。
生かさず、殺さず、暴動が起きないくらいの薄い満足度を人々へ与え続けるのが体制を維持するにはちょうどいい、と考えているだろう。
つまり、「生まれてきた意味」を他人へ考えさせようとすることは、社会には歓迎されない。
個人は、そんなことを考えてもお金にならないと思っているし、国や大きな組織の上層部は、そんなことを考えられたら、自分たちの足元が危うくなる、と思っている。
今後、AIによって左脳的仕事が失われても、社会的に衣食住を賄えるくらいの生産がなされれば、働かなくても生活できる人が世の中に溢れていくかもしれない。
今、カタール人がオーナーのカフェをつくらせていただいている。カタールでは、豊かなオイルマネーで国民には所得税がかからない。さらに、医療費、電気代、電話代が無料、大学を卒業すると一定の土地を無償で借りることができ、10年後には自分のものとなる。仕事時間も短く、毎日、余暇の時間が十分に取れているそうだ。働いているのは、外国人労働者で、カタール人の総人口を超えるらしい。今後、AIが発達すれば、さらにカタール人は働かなくてもよくなるのだろうか。
そんな時代の変化は、「生まれてきた意味」を考える余裕を十分に与えてくれるのだろうか。