落ち着いて毎日を暮らせることがどんなに幸せなことか、を災害が起こる度に思い知る。
1994年1月17日のロスアンジェルス地震を体験したことは、ぼくの空間づくりへの考えに少なからず影響を与えたと思う。
ぼくはそれまで発展途上国の人工的に完成されていない風景の中に、本質的な心の安らぎを感じて、そのような地域ばかりを選んで旅していた。
地震は、先進国の完成された人工的な風景を一瞬にして、発展途上国の風景に変えたのだ。
ぼくは被害に対する心の痛みとともに、瓦礫の隙間から希望の光が漏れ出るような快さを感じたのだ。
不謹慎に聞こえるかもしれないが、これが偽らざるぼくの感想だ。
それからちょうど一年後には、阪神淡路大震災が起きた。
ぼくはアメリカにいて、その被害の大きさに呆然としながら、テレビの画面に映し出される瓦礫の風景への憧れに似た思いを打ち消すことはできなかった。
それは死を感じさせるがゆえに、そこに大きな生が潜んでいるように感じられた。
それはそれまでに見たこともないような「生」を強く感じさせる風景だった。
その風景の中で、多くの人がボランティアとして躍動している、と聞いた。
彼らも暗黙のうちに、その「生」を感じ取っているのではないか、と思った。
災害からの復興とは、災害時のこの風景を塗りつぶして、忌まわしい記憶を消し去ってしまうことだろうか。
つくることと壊れることが均衡しながら同時進行することがぼくたちグリッドフレームの理想だ。壊れることが多く起これば、つくることも多く必要になる。
けれど、つくりすぎないことが重要だ。壊れたものを残しながら進めよう。
元の暮らしに戻したい、という熊本で被災した母の強い思いを感じながら、ぼくは未来へ向かって家を直していきたいと思う。