gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

映画 ノルウェイの森

2010年。トラン・アン・ユン監督。

村上春樹の「ノルウェイの森」が一世を風靡したのは、ぼくが学生だったころだ。ぼくには流行りものを嫌悪してしまう悪い癖があったので、その頃は読む気にならなくて、たぶん4、5年が経ってから読んだと思う。

初めて村上春樹を読んだのは「蛍」という短編で、たまたまそこにあったから読んだにすぎないが、そこに描かれる世界の哀しい美しさにぼくは惹き込まれた。

その強い印象が残っていたため、「ノルウェイの森」の最初の方に「蛍」がそのまま挿入されていることにぼくは戸惑いを感じた。

触れると壊れてしまうような存在である直子は、きっとワタナベの前から消えてしまうだろう。永遠に、現れては消えて、また現れては消えるだろう。まるで、蛍のように。

だから、「ノルウェイの森」の直子が自殺するまでの物語はすでに「蛍」で描かれていたともいえる。

「ぼくは楽観的な人間なんだよ」

ワタナベは直子と二人で暮らすために、大学の寮を出てアパートを借りる決心をする。セックスができない直子が抱く不安な気持ちに応えた、ワタナベの台詞である。

引き寄せようとする力が強いほど、直子は遠くへ行ってしまう。予感通り、直子はこの後に自殺する。

ならば、ワタナベの楽観が、直子を追い詰めたのだろうか。

いや、そもそも直子が異性と関係を持つとすれば、楽観的ですべてを受容しようとするワタナベのような人間以外にありえないだろう。

ならば、こうなる以外にどのような道があるというのか。

楽観とはなんだろう。楽観とは、一にこだわらないことだろうか。

ワタナベのそれは、そうではない。彼にとって楽観とは、一にこだわるなら、それ以外をすべて捨てられることであったはずだ。

俗的な種類の人間は、このような楽観を持てない。

直子が死んでからは、ワタナベの再生の物語である。ワタナベは、心にぽっかりと穴が開いたまま、それでも生き続ける。

それを可能にするのは、かれの楽観だとぼくは確信する。

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