gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

北風と太陽

ゆとり教育といえば、思い出すのがイソップの「北風と太陽」である。

旅人のコートを脱がすのに成功したのは、吹き飛ばそうとする北風ではなく、ポカポカと照らす太陽だった、という話。

強制的にやるのが北風で、自分の意志を尊重するのが太陽ならば、自分の意志で勉強をやってもらおう、と太陽のように照らす教育現場が、ゆとり教育の理想だったのではないだろうか。

現在、国際的に学力が低下した、という理由で脱ゆとり教育の時代に移り変わろうとしている。

まあ、もうちょっと北風を吹かせてもいいんじゃないの、ということだと思う。

結論としては、賛成だ。

京都大学の先生が、2000年代の半ばくらいに「学力の低下が著しい」と嘆くのを聞いたことがある。諸説あるようだが、本当に高校までに「考える基礎」ができていなかったのだろう。(現在はどうか知らない)

暗記を減らして、もっと考える教育に移行する、ということがゆとり教育の基本理念のひとつだったのだろうが、暗記していなかったら困ることがある。

ひとつは、円周率や√2などの値。アメリカに留学して、アメリカ人の大学生は円周や正方形の対角線の長さを求められないことに唖然とした。アメリカの大学でアジア系留学生が理系学科を席巻しているのは、おそらくこんなところと関係があるだろう。

もうひとつは、暗記一般についてだが、現在は20年前くらいまでと比べると、インターネットが行き渡って、わからない用語は自分で調べられるようになった。しかし、そのためには、用語を覚えていることが大事だ。意味はわからなくてもいい。インデックスがあることによって、意味はいつでも手に入るし、そこからインターネットを使って、いくらでも言葉の網を広げていくことができる。

だから、ゆとり教育以前の詰込み式教育は、結果的に悪くなかったのではないか、と思う。

「自分で考えてつくることが大事だ」とうたっている私たちグリッドフレームが、「でも、それは20%くらいがよい」としているのと同じかもしれない。

太陽=自分で考える教育を全体の20%くらい入れれば、それがちょうどよい具合なのではないだろうか。

ならば同時に、先生の権威を回復することに国は全力を挙げるべきだと思う。

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