「いつか人類は滅亡するんだろうか?」と妻が私に問う。
以前は、「人類の滅亡」という言葉は、結局のところ、自分の死を意味した。だから、単にそのような意味で「人類の滅亡」という言葉が恐ろしかったのではないか、と思う。
だが、それなりに年を重ねた今の私の頭の中では、もしそれが明日起こると仮定しても、「人類の滅亡」という概念に私自身は入らなくなった。私自身の死は大した問題ではなくなったのだ。少なくとも、私の頭の中では・・・。
そのうえで、私は、それを絶対に避けなければならないこと、と感じるか、というところから、この問いはスタートしなければならないだろう。
アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズ
これは、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に出てくる言葉である。恐らく、この言葉は、上記のような意味で使われていると思う。自分を勘定に入れては、問題の本質を見失ってしまうのである。
ある知人の言葉を思い出した。
彼は、私が自分にもうすぐ子供が生まれることを話したときに、こう言った。
「この世は、生まれてくる価値があるものだと思うかい?僕はそう思わないから、絶対に子供をつくらない。」
この言葉は、もしかしたらたくさんの人に誤解を受け非難されるかもしれない。
私も一瞬耳を疑った。だが、今はよく理解できるし、この言葉ゆえに彼を尊敬する。
もし、私が「いつかは人類は滅亡する」と考えているならば、子孫を残すべきではないのではないか?その子供は誰のために生まれてくるのか?
だが、そこまで考えて、子供をつくる人がどれだけいるだろうか?
知人は、そこまで考える人だった。つまり、「ジブンヲカンジョウニ入レズ」考える人だと思う。
自分を勘定に入れてしまう人間は、弱い。そして、物事の本質に触れることができない。
宮沢賢治は、物事の本質に触れることができる、強い人間になりたかったのだろう。
ちなみに、冒頭の問いへの私の答えは、「わからない」である。だが、たとえ地球が滅亡するとしても、この世に生きることは素晴らしい、と信じている。