gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

ウイリアム・モリス

私はウイリアム・モリスについて、あまり興味を持てない。それは、アーツ・アンド・クラフツ運動の原因・経過・結果が、現代から見て余りに自明のことのように映るからである。そこには、なんの不思議も感じられない。

それは私の勉強不足に起因しているのかもしれない。だが、今の私は、ウイリアム・モリスについて読む気にはなれない。

私の興味は、アーツ・アンド・クラフツ運動の結果から始まっている。すなわち、「丹精込めてつくられたものは、上流階級しか手に入れることができない。」という結果である。

私は、その対偶命題に心をときめかせたのである。すなわち、「大衆が手に入れられるものは、丹精込めてつくられていないものである。」

そのとき、私はアメリカの地方都市の大学で建築を学んでいて、クロスビーホールという古い校舎に研究室があった。クロスビーホールはもう、つくり手の情熱などからはすっかり解放されたオンボロ校舎で、私たちは、だからこそ壁に絵を描いたり、穴を開けたり、自由に自分の創造力を試すことができたのである。私たちはみんなクロスビーホールが好きだった。

丹精込めてつくられていないもの、もしくは、それを使い手に感じさせないもの。そのようなものでなければ、次の創造へとつながっていかない。

そのことを肌で感じた私なら、「大衆が手に入れられるものは、丹精込めてつくられていないものである。」という命題を、社会全体の利益に結びつけることができるのではないか、という考えにぶつかって、衝撃を受けたのである。

グリッドフレームはここから始まった。

例えば、現代アートの価値は、丹精込めてつくる、というところにはない。それでいて、アーティストは真剣につくっているし、つくられたものの価値も認められている。それが成り立つのは、20世紀になって価値が多様化されたからである。

イリアム・モリスが生きていれば、私の考えを理解してくれるだろうか。お互いに興味は持てないかもしれない。しかし、めざすところは同じだ。「創造の喜びを取り戻す」ために、私は生きようと思う。

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