gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

遠くのものを近くに見る

30歳になった頃、スクラップという捨てられたものに「かけがえのなさ」を見い出す視点を感じたときに、その視点とは、親がわが子に、「かけがえのなさ」を見い出す視点と同じではないだろうか、と書いた。

だが、私には子供がいなかったため、それは想像上のことでしかなかった。

それから15年経った今、ようやくそれを確認している。「かけがえのなさ」は、ある不思議からくる。スクラップで言えば、それは捨てられたものが意味から解放されたものであるという、「存在の不思議」である。わが子への視点で言えば、それはなぜ彼が私の目の前にいるのか、というやはり「存在の不思議」であろう。

あるときは、血のつながりという不可解で遠くにある何か、に想いを馳せることによって、「かけがえのなさ」は姿を現すだろう。

また、あるときは、放っておけば生きていけない、「守るべき存在」として目の前に在ることの不思議を思うときに、「かけがえのなさ」を見い出すかもしれない。


映画監督の萩生田宏治さんとお酒を飲む機会があったとき、「映画を観る人は、半分は、フィルムとフィルムの間の暗闇を見ている」とおっしゃった。学生時代によく酒を飲みに行った京都・吉田山の白樺というバーのご主人だった高瀬泰司さんは亡くなられる直前に病床で書かれた「はったい粉とコスモス」の中で、生きるイメージを、映画のスクリーンに例えて、「スクリーンのうしろから、たっぷりとした暗闇がスクリーンを支えるようにして、ひしひし押して来ていた」(p.268)と書かれた。

暗闇は死であり、「生と死とがすぐ隣り合わせで居ることは、子どもならみんな知っていることなんだ」(p.269)と書かれた。

「これからを生きようとするちいさな生命はいつも死と友だち同士なんだ。」(p.269)

遠くのものを近くに見る、とは、このような目でちいさな生命に向かい合うことだ。