小学生の頃、祭りといえば花火大会だった。
夕暮れ時、家族4人で田んぼ道を30分ほど歩いて、宝満川の河川敷へ。ビニールを広げて、草むらにすわりこむ。周囲もたくさんの親子連れ。知っている顔もたくさん見える。
りんご飴、焼きもろこし、金魚すくいなど、出店がずらりと道にならぶ。辺りが暗くなってくると、灯りはこの出店の列のみである。人も集まるが、虫も集まる。そこら中に蚊取り線香の煙の匂いがする。
人口3万人都市の花火大会は、放送でスポンサーが紹介され、ドーン、バチバチバチッと一まとまりの花火が上がり、少し余韻があって、また、次のスポンサーが紹介され、・・・というかたちで進行する。
近くのスーパーの名前が紹介されると、花火がどのくらい派手かによって、そのスーパーの今年の業績を想像する、みたいな見方を大人たちはしていたのだろう。スポンサーとしても、真剣だったにちがいない。まあ、子供にはどうでもよいことだった。
そのとき、空を覆うかのような大きな花火を真上に見上げた記憶は、決して色褪せない。
毎年、東京のどこかで花火を目撃する。数十年前と比べたら格段に技術は進歩しているのだろうが、子供の心で感じたほどのインパクトはない。
爆発の光景から少し遅れて音が追いかけてくる。それが、すさまじい勢いで繰り返された後に、しばしの静寂がやってくる。
最後の華々しい花火の後、静寂は極まる。この寂しさこそが、夏祭りだった。
あの花火はすごかったね、などと話しながら、家族4人で田んぼ道を帰る。懐中電灯の光がゆれていた。