学芸大学のビストロURUSHIへ。
以前、お店を大岡山でつくらせていただいたことがあるオーナーシェフのお店へ。
現在は、地元のお客さんがついて、愉しく料理をつくっていらっしゃる。
お店も数か月かけて、居抜きをご自分で改装されていて、他にはない空間になっている。
ぼくらがつくったわけではないが、いいお店だ。
グリッドフレームのオフィスを深夜に出ると正面の家から「ワン、ワン」と子犬が吠える声がする。かわいい声で、きっとぼくたちに、「おつかれさま」と言ってくれてるんだ、とぼくたちは笑顔になる。
それが1年以上も続いていた。子犬の姿は見たことがないが、ぼくたちの間ではほとんど大事な友達と化していた。
ある日、陽向がオフィスに来たときに、正面の奥さんに「子犬がいるんですか?」と聞いたらしい。その結果、それは防犯用のセンサーだったということが判明。
知らないままでいたかった。。。
郊外に飲食店を出店予定です。コンセプト決めや内装について、都心での出店と比較した際にどのようなポイントに注意すればよいでしょうか。という問いに対して・・・
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コロナの影響で、人の都心から郊外への流出は今後、加速していくと言われています。
この流れが現実のものとなった場合、都心での出店のアドバンテージは失われ、郊外でも人の集まらない場所で近所の人に支持されるようなじっくり型のお店こそメインの潮流になっていくのかもしれません。
確かな食材を使い、味にこだわって、無理のない値段で提供していく、基本に立ち返ったようなお店が待ち望まれているのだと思います。
コンセプト決めや内装についても、中長期的な視野で、オーナー側がずっとそこでやっていきたい、と思えるお店にすることが大事だと思います。
ご自宅をつくるつもりで、お店づくりに臨まれるのがよいのではないでしょうか?
最近の陽向は、言葉が通じなくなって、笑いが止まらなくなったりする。
休んでばかりいるように見えたけれど、実は全力で闘っていたのかもしれない。
陽向が泣くことは少ない。今、泣くことと笑うことはほとんど同じだけれど、ならば笑っていた方がよいから、笑っている。
彼の笑顔はいつもと変わらずとてもいいのだけれど。
帰りの車ではぐっすりと眠る。しかし、家に帰ると今度は眠れない。
彼が壊れないように、そっと包み込もうとすると、隙間からするりと逃げる。
大丈夫、人間は頑丈につくられている。大丈夫。
いつも喜んでSOTOCHIKU素材をいただいているが、どう使おうかなんてアイディアがあるわけでもない。
だれもやったことがないことだからね。
いつも真剣に向かい合い、その答えを探す。
答えが出なければ、それで終わり。
その闘いの中にいる。
かつて、秋刀魚を焼いた後、カレーに混ぜ込む、という少々ワイルドなカレーをつくっていたことがあった。
内臓も一緒に混ぜ込んでしまうが、その苦みがむしろ隠し味になる。
そんなカレーを久しぶりにつくってみたい。
10月半ばになればできるかな・・・
石の階段にすわったときに
ふと地面の近しさを忘れていたことに気づくように
並木通りを歩いたときに
ふと髪に触れた木の葉の近しさに気づくように
雲間からそっと光が射したときに
ふと太陽のやわらかな近しさに気づくように
その人に寄り添うことで
どうかその人の心が近しさを取り戻しますように
じゃんけんは気合いだ。
気合いとともに相手と勝負するじゃんけんは、必ず勝率が上がる。
もちろん、実力勝負なら気合いが大きな要素の一つになるが、実力とは関係のないはずのじゃんけんだって、勝つためには気合いが必要なのだ。
非科学的と言われようが、実際勝率を比べてみるとよい。
というわけで、陽向とのじゃんけんでは気合いを競っている。
周りから見ると、うるさくて迷惑なじゃんけんだが。
日常生活の中で、デザイナー・施工管理者としての職業病が出てしまうシーンはありますか?という問いに答えて
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生活の中で何かを考えるとき、そこに常識やルールがあれば、それから外れたところに答えを見い出そうとするところだと思います。
デザインをするとき、人と同じ土俵に立っていては価値のあるものは生まれません。職業病というより、だからデザイナーになったのかもしれませんが。
ぼくのデザインの方針は、決められた条件を常識的に捉えるとこうなってしまう、という枠の中にデザインを収めようとしない、ということだ。
どうにかして枠の外に出ようとする。つまり、同じ土俵に立たないこと自体で勝負する。
だから、日頃から他人がするような稽古をしない。建築雑誌も見ないし、建築の本も読まない。その代わり、哲学を繰り返し読む。
人とは対峙する。そして、求められていることの裏側にあるものを見ようとする。
父親が亡くなったとき、陽向は0歳だった。
急遽、熊本へ帰ったときの陽向は、空気を察したのか、驚くほど静かだった。
ほとんど泣くこともなく、いつも静かに微笑んでいた。
忘れられないのは、肩を落としたぼくの方をゆっくりと叩いたことだ。
周りの波動から、人の心を察知する想像力を彼が持っていることを感じた。
現在11歳の彼に足りないのは、このときの「心を察知する想像力」であるように思われる。
だが、焦ることはない。ぼくはあのとき以来、絶大な信頼を彼に寄せているのだ。
子供が嘘をつく。約束を守らない。
その理由を構造としてまとめるなんて無理なことかもしれない。
誰にでも通用するなんて無理だろうが、仮説を立ててみる。
仮設はこうだ。集中力がない、と言われる子供は、集中する対象が望まれることとずれているのに違いない。
本分と思われていることと集中することが違うから、本分が大事と思っている者からは「ふざけている」と思われてしまう。
本分と思われていることについて約束をしても、子供はそれを守ることができない。だから、「嘘をつかれた」と思ってしまう。
他人が本分だと思っていることを尊重する想像力は重要だが、それ以外のところに興味の対象を見つけるのは、創造力とも言えはしないか?
冷静に見つめることが必要だ。