gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

脆弱な社会

コロナウィルスの影響がどんどん拡大しているようだ。

 

いわゆるグローバル社会は、どんどん機能不全に陥っていくのか。

 

アジアでは中国を筆頭に抑え込みに成功する国が増えてきたそうだが、日本は対応が遅れている。

 

比較的数字が低いままなのは、オリンピックをあきらめていないがゆえに真実の数字を知らないことにしたいのか、と推測されるが、ちゃんと検査をすれば、数字は跳ね上がることを多くの人が予想しているようだ。

 

満員電車は相変わらず満員のままだ。当然のことだ。

 

 

飛行機チケットのキャンセル

コロナウィルスの影響を鑑みて、3月末の久しぶりの帰省を諦めることにした。

 

ずいぶん前から取っていた飛行機のチケットも、レンタカーもキャンセルすることに。

 

飛行機チケットのキャンセルは、航空会社のwebでスムーズに進めていたが、最後の最後に「確認番号」なるものの入力を求められ、止まった。

 

そこまでが5分。それから、「確認番号」のチェックに2時間。結局、わからず。

 

次の日に航空会社に電話をすると、キャンセルが相次いでいるため、1時間もつながらない。

 

ようやくつながったと思うと、空港カウンターに行かねば、本人確認ができないため、教えることができない、と。

 

さすがに、ありえない、というと、身分証明書をFAXしてください、とのこと。

 

FAXのあと、航空会社から「確認しました」と電話があり、返金の口座番号を聞かれ、ようやく終了。

 

キャンセルするだけで半日を無駄にしたことになる。

 

電話が殺到するのであれば、確認番号なるものを不必要にするか、簡単に再検索できるようにすればよいだけのことである。

 

キャンセルの手続きを面倒にすることで損失を防ぐ、という悪意があるようにも感じる。これは、この会社に限ったことではないが。

 

とにかく、後味はよくない。

 

 

映画 ロルナの祈り

2008年。ベルギー。監督はダルデンヌ兄弟

 

アルバニアからベルギーにやってきたロルナは、国籍を取得するために闇ブローカーファビオの手引きでクローディという麻薬中毒者の男と偽装結婚する。(wikipedia)

 

生きるために金を稼ぐ。そのために、人間を捨てるのか。人間であろうとしたロルナの美しさ、力強さが微かな温度をともなって胸に残って離れない。

 

 

あるべき姿

陽向が塾通いを始めて、1か月が過ぎた。

 

塾についていくことが生活のすべてになっている。

 

できるようになりたい。

 

がんばりたい、という気持ちはいつも不変で、頼もしい。

 

けれど、がんばり方がわからない。

 

少しずつ、生活が荒れてきているかもしれない。

 

陽向らしくあるために、どう過ごせばいいのか?

 

いっしょに考える。

 

 

はじまり

突然、ひとつの時代が終わろうとしている

 

もちろん、ぼくらが生きている限り、それは時代の始まりでもある

 

たぶん、たくさんのことが元には戻らないだろう

 

それに抵抗している人たちも、いつまでもそれを続けることはできない

 

悪いことではない

 

よいことかどうかは、ぼくら次第だ

 

 

コーヒーをサイフォンで入れる

わさわさした心では人に向き合えない。

 

コーヒーをゆっくりと沸かしながら、話をする。

 

所作のひとつひとつに気をつかって。

 

ミルは、規則正しいリズムで回す。

 

挽き方が細かすぎないように。

 

マッチを擦って、火を点す。

 

お湯が上がってきたら、かき混ぜて、火を消す。

 

このときの香りがよい。

 

コーヒーが下りる時間がちょうどいいように。

 

カップは小さい方がいい。温かいものを継ぎ足せるから。

 

22年前に父が焼いたカップたち。

 

全体にゆっくりとした動作で、丁寧に。

 

 

会社を立ち上げた頃にはなにげなくできていたことだ。

 

22年目。再び、始める。

 

 

 

 

形容詞の実体

朝、陽向が怖い夢を見た、という。

 

いつも見ている闘いのゲームのように相手と闘っていたら、剣で刺されて殺されてしまった、と。

 

ぼくは、殺されそうになった夢は何度も見たけれど、必ず死ぬぎりぎりのところで目が覚めていた。だから、夢で死んだことは一度もない。

 

「とにかく、今日は気をつけろよ」と言って、送り出した。

 

さておき、「怖い夢」と言われて思い出したのは、5歳の時に見た夢だ。

 

熊本の父の実家の戸棚に飾られてあった黒い木彫りの人形。二人のおじいさんが一対。これをなんとも不気味なものとして子供の目では捉えていたのだろう。

 

何者かに追いかけられて、その頃に住んでいたアパートの階段を駆け上がると、その黒いおじいさんがひそひそ話をしているところに出くわす。

 

そのときの恐怖心を最も怖い夢として思い出すとは、どういうことか?

 

きっと「怖い」という形容詞をぼくは物質として掴んだような体験だったのだろう、と発見した。

 

「怖い」という塊がそこにあったのだ。

 

これまで他に、どんな形容詞の塊に出会ってきたのだろう?

 

「清々しい」「美しい」「悲しい」「苦しい」「痛い」「愛しい」「快い」「不思議な」・・・

 

本当に出会ってきたかどうかも、分からない。

 

だが、死ぬまで忘れない体験を今日することになるだろうか?という問いを持って今日を生きるのは、悪くない。

 

 

 

新型コロナウィルス

 コロナウィルスについて、いろんなことが分かってきたようだ。

 

というより、よく分からないウィルスだということが、分かってきたようだ。

 

潜伏期間も、症状も、ケースバイケースのため、どの状態で治癒したと言えるのか、確信が持てないウィルスであるらしい。

 

確かなことは人と人が離れていればうつらないことだ、という。安富歩は、人が隔離された状態で働ける職業の人だけは感染の心配から逃れられる。あたかも、ウィルスが人類に新しいライフスタイルを求めているようだ、と。

 

中国ではこの騒動で、急速にネットの整備が進み、遠隔での仕事が可能になってきているそうだ。中央集権的な仕事場は、もう崩壊するしかない、と。

 

リアルな物体をつくる仕事はそうはいかないのか、それとも・・・。

 

創造性の連鎖の時代がやってくる。

 

 

集まる場をつくるのか

ぼくは、これまで、人が集まる場をつくる仕事をしてきた。

 

けれど、それは表層的な意味において、だ。

 

レストランにしろ、サロンにしろ、本当は個人が何かを発見する場をつくってきたと思う。

 

二人、三人ならば、気づいてくれることも多いだろう。

 

けれど、それよりも多くなると、なかなか個人に働きかける場にはなりにくい。

 

誰かと一緒にいても、人間はたった一人だ。

 

一緒にいることで、生きる力をもらっているとしても。

 

一人としての人間に働きかける空間をつくる。

 

今後は、人が集まる場だったとしても、そのことに集中していける。

 

 

新しい生き方

ぼくたちは、自分が何のために生まれてきたかを、改めて自分に向き合って答えを探すときを迎えている。

 

もう、このままでは人間は持たない、と思っていた矢先だ。

 

ただ、自分を生きる。一人一人が自分を生きることに集中する。

 

それが始まる。

 

新しい生き方は、ひとり自発的に始めるしかないと思っていたけれど、今、自然に強制を受けて始まる。

 

よいではないか。

 

ありがたいことに、もう、これまでの生活には戻れない。

 

進むだけだ。

 

 

 

 

休校

突如、小学校が休校になった。

 

春休みが終わるまで、夏休みくらいの長さの休みになった。

 

学童クラブに登録している陽向は、とりあえず問題ない。

 

しかし、そうでない多くの児童は、一体どのようにしてこの事態を乗り切ることができるのだろうか?

 

実は、塾に通い始めて、今のところ勉強が追い付いていない陽向にとっては、この休みは好都合だ。

 

塾の勉強にしっかり照準を合わせられる。

 

しかし、柔道の練習もしばらく休みになった。

 

非常事態だ。しっかりと心を引き締めて、この期間を過ごそう。