gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

デザインの可能性

ランボルギーニカウンタックのリアデザインを見ながら、「モノにはこんなデザインがあるんだ」と自分の中に発見があった。

 

二次元で三次元を表そうとするのが、パースという絵の手法だが、その中でも一点パースは構図のなかにダイナミシティを与える。そんなパースの効果を意識した二次元平面を、三次元デザインの中に要素として足す。

 

ランボルギーニのデザインを「過剰」と形容している文章がある。その言葉がポジティブな意味で使われていることに新鮮さを覚えるが、まさにこのような部分こそ過剰というにふさわしい。

 

 

音楽の力

安富歩氏は選挙の時に、音楽を演奏する人たちと一緒に回っていた。

 

演説の盛り上がりに合わせて、映画音楽のように鳴り響いていた。

 

ちょっと照れ笑いを交えて、空気をずらしながら、勘違いしてる人にならないよう配慮していたように聴こえた。

 

かくして、選挙演説はエンターテイメントになる。

 

この人がやることは、面白い。

 

 

映画 言の葉の庭

 2013年。新海誠監督。

 

この映画を支えるとてつもなく美しい背景は、かつて毎週のように日曜日に行っていた新宿御苑であるという親近感も手伝って、この作品に引き込まれた。

 

雨宿りする東屋で出会う男女。他に誰もいない。このようなシチュエーションが生まれる場所を他に想定しようとしても容易には見つからない。

 

その二人が万葉集の中の柿本人麻呂の歌を詠み合う。

 

 

雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ

 

雷が鳴り響き雨でも降ってくれないであろうか。そうすれば、あなたをこの場に引き止めることができるのに。

 

雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて 降らずとも 我は留(とま)らぬ 妹し留めば

 

たとえ、雷が鳴り響いたり雨が降らずとも あなたが引き留めるなら私はここにいる。

 

 

この映画を支えるのは、ぼくらの社会が削ぎ落すものたちだ。

 

ぼくらがその世界へ入っていける時間を持てることを、幸せに思う。

 

 

子供を守る

安富歩さんの1月20日の講演で、彼が唱える「子供を守る」とはどういうことか、を説明している。

 

日本の政策の大本はずっと「富国強兵」だったが、もはや核兵器が使われる戦争に強い兵士はいらない時代になっている。

 

まともな戦争はもう起らない。あるのは、対ゲリラ、対テロ、対サイバー攻撃の戦いだ。

 

ならば、「富国強兵」という目標を「子供を守る」に切り替えるべきだ。

 

そして、「富国強兵」という古い時代に育った自分たちの頭では考えられない、現代の数々の問題を未来の大人に解決してもらおう、と言うのだ。

 

具体的には、子供たちにぼくらの常識を押し付けないことだ、という。

 

子供が正しいと思うことをやらせる。

 

では、正しいと思うことを、子供はいかに真剣に考えることができるか?

 

そのモチベーションは、自分自身から生まれるか、友達との関係の中から生まれるか、どちらかしかない、と・・・これは塾の講師の方が言っていた。

 

親としてできることは、その機会を与えることだけだ。

 

 

less is more

「はかなさ」 消えやすく長続きしないこと

 

「せつなさ」 胸が締め付けられるような悲しさや、つらさのこと

 

ぼくらは、何かを失うことや失う兆候・予感に対して、美しさを感じる。美を感受する心とは、「はかなさ」や「せつなさ」というぼくらの生まれながらに制約を受けた、右下がりの心象風景に対してまるで代償のように与えられるものではないか。

 

誕生、成長、上昇の「喜び」は、それ単体ではなく、上記のような逆の位相を持つ心象風景と対として捉えられたときに自然に湧き起こるものでありたい。

 

遠くを見つめるような微笑みをともなって。

 

そのときに、右上がりの心象風景も、初めて美しいものとして描かれる資格を持つ。

 

だから、あるプロジェクトのために空間をつくるとき、ぼくらがクライアントの構想に求めるのは、成功を描く背景にある「はかなさ」や「せつなさ」だ。

 

永遠でありたいと願って、それらと向き合いつつ、生きる。

 

less is more を、ぼくはこのような意味と捉える。

 

 

ブラックボックスに関わらない

空間をつくる仕事でコンペ形式をとるプロジェクトが減ってきている。

 

もうコンペというものが時代的に古くなってきているのだろう。

 

理不尽なものは消えていくしかない。

 

そもそもフェアなコンペなどほとんどない。憤りを感じること、虚しさを感じることはとても多い。

 

アイディアをタダで得ようとする行為を業界が認めていること自体がナンセンスだ。

 

もっと良くないのは、決裁者が合おうともしないで、あっさりと結果を示される場合だ。

 

ブラックボックスがある状態でコンペは成立しない。

 

それを最初に確認しても、担当者は「ぼくらが決めるので」と嘘を言って参加させようとする。

 

立場主義的な嘘なので、無意識的なのだろう。罪悪感もない。

 

だが、そうやって、この瞬間も世の中は壊れていっている。

 

コンペという形式には、世の中の問題が凝縮しているとさえ言える。

 

もうブラックボックスには二度と関わらない。

 

 

サグラダファミリア

昨日の高層ビルの現場が、立場主義の見本のような状況になっていることを思うとき、サグラダファミリアがいかに異なるつくり方で進められているか、に改めて感動する。

 

このようなつくられ方が可能になるためには、多くの才能あるつくり手が必要だ、という意見はあるだろうが、実はぼくはそう思っていない。

 

つくる能力に差があって構わない。むしろ、その方が面白いものができあがる。

 

ぼくはそう思う。

 

 

高層ビル

昨年後半はスーパーゼネコンが高層ビルを建設中の現場に店の内装工事として入った。

 

完全にとりかえのきく部品のように扱われる雰囲気が場を支配していたようだ。スーパーゼネコンとはビジネス上の関係がないぼくらは、問題があるたびに戦ってればよかったが、ビジネス上の関係が濃い会社は黙って理不尽を受け入れていたらしい。

 

日本の「立場主義」の縮図がそこにある。

 

大勢で大きなものをつくると、必ずこうなってしまうのか?

 

 

 

 

フェルッチョ・ランボルギーニ

ランボルギーニ創始者フェルッチョ・ランボルギーニは、1963年の設立から1974年にすべての株を手放すまで、自分の高い理想の車を実現することだけに情熱を注ぎながら時代を駆け抜けた。

 

「当時ランボルギーニは、他の自動車会社のデザインや哲学を超えた、過剰のシンボルとして世界レベルで認識されていた。合理的で一般受けするような普通の車を作ったところで、自社のカラーの反映にはつながらず、また期待を裏切る結果になってしまう。」(ランボルギーニのHPより)

 

当初から斬新な車をつくり続けた彼は、いわゆる「売れる車」をつくることが許されなくなったのだ。彼が去った後も会社は生き続けたが、今もランボルギーニを代表するミウラとカウンタックは、彼の時代につくられた車だ。

 

子供の頃のぼくもこの2つの車に強烈に憧れて、その後、この二つを超える車は出ていないと思っている。

 

その後、ランボルギーニアウディの傘下に入り、ライバルのフェラーリフィアットの傘下に入る。

 

大衆車の会社が業績的にはスーパーカーの会社を凌駕するのを現実だと考えるべきか?

 

フェルッチョ・ランボルギーニスーパーカーだけで成立する会社を求めたのではないか?

 

 

必要

Bという結果を得るために必要だから、Aを施す。

 

だが、往々にして、Aを施したことはB以外の様々な結果をもたらす。予想もしない結果を。

 

 

世の中の事象から複雑さを削り取り、シンプルな構造として見ることで、AならばBという構造が得られて、Aという政策がつくられる。

 

だが、大事なことはその中で削り取られたことだ。

 

安富歩はそう言っている。ぼくも空間をつくる中で残したいのはそれだ。

 

 

 

マスコミ

先進国の中で、日本はマスコミを信じている国民が著しく多い、という表がある。

 

ヨーロッパやアメリカでは信じている人は3分の1もいないのに対し、日本は実に70%以上の人が信じているそうだ。

 

日本人は人を疑うのが嫌いなのだろう。ぼくもそうだ。

 

しかし、どうやら、そうは言ってられない時代のようだ。

 

この国の上層部にある人々は、現在の自分の立場や既得権益を守るために、それを確実に利用しているからだ。

 

自分たちに都合の悪い情報は、すべて報道から消されている。

 

それは誰に対して被害をもたらすのか?

 

それは、ここに生きる未来の人間たちに対してだ。

 

「人を信じる」という尊いDNAを壊さずに、今の世の中を疑って、変えなければ。

 

矛盾のようだが、もっと大きな「人を信じる」心がその行為を支えることをぼくらは知っている。

 

 

Underground Factory

遠い先にある風景を眺めていても、

指の先で感知するあの微細な違いには永遠に届かない

 

地下へ階段を下りて廃墟にそっと触れる

 

それが静かに微笑んでいるのを知るのは、

真に一人でその空間に向かい合う者だけだ

 

それは、つくられた関係を失い、

いつの間にかまた自然の一部であることに気づいて、

思わず口元を緩ませてしまうモノたちの照れ笑いだ

 

都会のどこかに必ずあるという

地上の営みを支える underground factory

 

陽の光を求めるように

何かを待ち遠しく感じるのは どのくらいぶりだろう