gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

ブラックボックスに関わらない

空間をつくる仕事でコンペ形式をとるプロジェクトが減ってきている。

 

もうコンペというものが時代的に古くなってきているのだろう。

 

理不尽なものは消えていくしかない。

 

そもそもフェアなコンペなどほとんどない。憤りを感じること、虚しさを感じることはとても多い。

 

アイディアをタダで得ようとする行為を業界が認めていること自体がナンセンスだ。

 

もっと良くないのは、決裁者が合おうともしないで、あっさりと結果を示される場合だ。

 

ブラックボックスがある状態でコンペは成立しない。

 

それを最初に確認しても、担当者は「ぼくらが決めるので」と嘘を言って参加させようとする。

 

立場主義的な嘘なので、無意識的なのだろう。罪悪感もない。

 

だが、そうやって、この瞬間も世の中は壊れていっている。

 

コンペという形式には、世の中の問題が凝縮しているとさえ言える。

 

もうブラックボックスには二度と関わらない。

 

 

サグラダファミリア

昨日の高層ビルの現場が、立場主義の見本のような状況になっていることを思うとき、サグラダファミリアがいかに異なるつくり方で進められているか、に改めて感動する。

 

このようなつくられ方が可能になるためには、多くの才能あるつくり手が必要だ、という意見はあるだろうが、実はぼくはそう思っていない。

 

つくる能力に差があって構わない。むしろ、その方が面白いものができあがる。

 

ぼくはそう思う。

 

 

高層ビル

昨年後半はスーパーゼネコンが高層ビルを建設中の現場に店の内装工事として入った。

 

完全にとりかえのきく部品のように扱われる雰囲気が場を支配していたようだ。スーパーゼネコンとはビジネス上の関係がないぼくらは、問題があるたびに戦ってればよかったが、ビジネス上の関係が濃い会社は黙って理不尽を受け入れていたらしい。

 

日本の「立場主義」の縮図がそこにある。

 

大勢で大きなものをつくると、必ずこうなってしまうのか?

 

 

 

 

フェルッチョ・ランボルギーニ

ランボルギーニ創始者フェルッチョ・ランボルギーニは、1963年の設立から1974年にすべての株を手放すまで、自分の高い理想の車を実現することだけに情熱を注ぎながら時代を駆け抜けた。

 

「当時ランボルギーニは、他の自動車会社のデザインや哲学を超えた、過剰のシンボルとして世界レベルで認識されていた。合理的で一般受けするような普通の車を作ったところで、自社のカラーの反映にはつながらず、また期待を裏切る結果になってしまう。」(ランボルギーニのHPより)

 

当初から斬新な車をつくり続けた彼は、いわゆる「売れる車」をつくることが許されなくなったのだ。彼が去った後も会社は生き続けたが、今もランボルギーニを代表するミウラとカウンタックは、彼の時代につくられた車だ。

 

子供の頃のぼくもこの2つの車に強烈に憧れて、その後、この二つを超える車は出ていないと思っている。

 

その後、ランボルギーニアウディの傘下に入り、ライバルのフェラーリフィアットの傘下に入る。

 

大衆車の会社が業績的にはスーパーカーの会社を凌駕するのを現実だと考えるべきか?

 

フェルッチョ・ランボルギーニスーパーカーだけで成立する会社を求めたのではないか?

 

 

必要

Bという結果を得るために必要だから、Aを施す。

 

だが、往々にして、Aを施したことはB以外の様々な結果をもたらす。予想もしない結果を。

 

 

世の中の事象から複雑さを削り取り、シンプルな構造として見ることで、AならばBという構造が得られて、Aという政策がつくられる。

 

だが、大事なことはその中で削り取られたことだ。

 

安富歩はそう言っている。ぼくも空間をつくる中で残したいのはそれだ。

 

 

 

マスコミ

先進国の中で、日本はマスコミを信じている国民が著しく多い、という表がある。

 

ヨーロッパやアメリカでは信じている人は3分の1もいないのに対し、日本は実に70%以上の人が信じているそうだ。

 

日本人は人を疑うのが嫌いなのだろう。ぼくもそうだ。

 

しかし、どうやら、そうは言ってられない時代のようだ。

 

この国の上層部にある人々は、現在の自分の立場や既得権益を守るために、それを確実に利用しているからだ。

 

自分たちに都合の悪い情報は、すべて報道から消されている。

 

それは誰に対して被害をもたらすのか?

 

それは、ここに生きる未来の人間たちに対してだ。

 

「人を信じる」という尊いDNAを壊さずに、今の世の中を疑って、変えなければ。

 

矛盾のようだが、もっと大きな「人を信じる」心がその行為を支えることをぼくらは知っている。

 

 

Underground Factory

遠い先にある風景を眺めていても、

指の先で感知するあの微細な違いには永遠に届かない

 

地下へ階段を下りて廃墟にそっと触れる

 

それが静かに微笑んでいるのを知るのは、

真に一人でその空間に向かい合う者だけだ

 

それは、つくられた関係を失い、

いつの間にかまた自然の一部であることに気づいて、

思わず口元を緩ませてしまうモノたちの照れ笑いだ

 

都会のどこかに必ずあるという

地上の営みを支える underground factory

 

陽の光を求めるように

何かを待ち遠しく感じるのは どのくらいぶりだろう

 

 

懐かしい悲しみ

「懐かしい悲しみ」とは9歳の息子陽向がワードで打った最初の日記のタイトルである。

 

そろそろ懐かしい思い出が浮かんでくる年頃だろうか?

そして、その悲しみを多様な視点で受け止めることができるようになった、ということだろうか?

 

陽向のストレートな回路での言葉選びに、ハッとさせられるのは、きっと異国にいる外国人の言葉にも当てはまるだろう。

 

ぼくがアメリカにいる頃、建築課題のプレゼンテーションには多くの人が集まってくれた。こなれていない英語の言葉選びは、きっと今の陽向のようで、だからこそ、新鮮な響きを持って受け止められたのではないか?

 

陽向が発したこのフレーズによって、ぼくの頭には、ぼく自身のたくさんの「懐かしい悲しみ」が去来している。

 

そう、ぼくは空間によって、同じことができると思っている。

 

人の心に、問いを投げかけるのだ。

 

 

ウォール街の人たち

先に紹介した講演の中で、ウォール街の人々を、非人間的な怪物のようにイメージしてしまうことを、講演の感想ページの中に書いたら、次の方が下記のように書いておられた。失礼かもしれないが、そのまま引用させていただく。

 

ぼくへのレスポンスかどうかはわからないが、ありがたい。痛いほどに詩的な文章で、すばらしい。

 

++++++

彼らの問題は『法』によって縛れないことである。合衆国法では彼らを取り締まることができない。逆に彼らは合衆国政府を動かす事ができる。買収・ハニートラップ・暴力・暗◯によって。彼らは合衆国黎明期の法整備される以前に手を回し、乗っ取ることに成功したのだ。完全に法の外に在る彼らが欲望を剥き出しにするのは当たり前で、どうやって「彼らの首に鈴を着けるか」に悩むネズミの心境である。

『今だけカネだけ自分だけ』かなり刹那的な人生だ。水溜りのような人生である(水溜りにも生命は存在する)。行動も稚拙で破壊的だ。相手に配慮する必要がないからだ。完全に守られた世界で采配を振るう絶対主義社会の“暴君”である。絶対主義とは完成した時から崩壊が始まる。内部崩壊である。この時、外からは何も抵抗できないので、残虐非道が尽くされる。何故か?彼らは『自分の存在証明をしなければならない』からである。人間には自分が生きた証が必要なのだ。

日本人なら道路の一部を作り上げたことにも満足できる。汗水流して自分で作り上げたものだからだ。それが多くの人に役立つことで満足するし、作り上げることが如何に大変な労力かもよくわかる。

しかし彼らは直接社会に働きかけることはしない。「直接社会に働きかけない」という不文律が有るからだ(直接働きかけると“ゲーム”にならない)。彼らの存在は実態社会と乖離があるため、何もしなければその存在は『無に等しい』。だから“自己の存在証明”のためにはセンセーショナルな事件を起こさざるを得ない。しかも儚い人生は瞬く間に過ぎ去って行くので、急がなければならない。彼らは常に焦燥感の中に居る。『何時乾くか分からない水溜りで泥水を啜って足掻いている』のである。

彼らは“稚拙”であることを恥じている。先代までは大衆を良く理解し操り、狡猾で細心“悪魔”と呼ばれた。そして完成した「絶対主義社会」。しかし彼らは自らを“神”と称した。そして彼らは“神”であることを証明し続けなければならない。“神”の性格は単純で短絡的。その言葉に彼らの焦りを感じる。

++++++

 

「自己の存在証明」のために残虐非道をつくすとすれば、過去の大戦における日本軍の残虐非道が「立場主義」から来るのとは、真逆である。「仕方がなかった」という言い訳や良心の呵責はそこには皆無だということになる。

 

他人の痛みを感じられないのは、すべてをゲームの中の出来事だとしか感じられないからだというのはわかる。

 

すべてはゲームだ、という一握りの人々によって、世界は破壊されていくのだろうか?

 

本当にそんな虚しい特権がこの世にありうるのか?

 

 

 

 

映画 ミッシング

1982年。アメリカ。

 

1973年のチリ・クーデターを背景として、在チリ・反体制派のアメリカ人がアメリカ大使館に見殺しにされた、もしくは、殺害を促された実話を追う。

 

アメリカが世界中で仕掛けてきた戦争・内戦・紛争がどれだけの人々を悲惨な目にあわせてきたか。

 

どれも理由は、行きつくところ、アメリカの金欲である。悪名高いピノチェト軍事政権を誕生させることに、人道的に意味はないだろう。

 

今も延々と続いているアメリカの金欲からくる世界の破壊をどこで食い止めることができるか。

 

それだけでバラ色の未来が待っているわけではないだろうが、それは明るい未来への大きな一歩だ。

 

 

社会と生活

これまで何度もドラマで見てきたセリフとして、

「自分の家庭も幸せにできない人が、社会を幸せにできるわけないじゃない!」

というものがある。

 

たぶん、このセリフを吐く人の発想に問題があるのだと思う。

 

「社会を幸せにできない人が、自分の家庭を幸せにできるわけないじゃない!」

が正しいと信じて生きる人を増やさないと、本当の幸せは遠いままだ。

 

 

 

 

ウォール街から見た世界

堤未果氏の講演を動画で見た。

 

ウォール街にいる、未来のことを考えないで大金を手にしようと考える人たちが世界を破壊しようとしている。お金の流れを注視して、お金に変えられないものを決して失わないように、地に足の着いた活動を未来のためにやっていこう。

 

というのが趣旨だ。

 

投資家たちに確実な利益をもたらすために、世界の衣食住を牛耳るべく、他国の資源を略奪したり、研究機関を破壊したり、法律を変えていったりしているのが、米国だ、と。

 

そのような構図を具体例とともにシンプルに伝えてくれることは、明確な視点を持つことにつながった。感謝したい。

 

れいわ新選組の主張とも重なっているように感じるが、れいわの安富歩氏が、国の暴走は「立場主義」というある意味で至極人間的なものから生じることを述べていて、各人が克服すべきものとして提示しているのに比べ、ウォール街の人々は非人間的な怪物のように述べられていることが気になる。

 

非人間的な怪物であれば、テロの標的になるより他にない。

 

 

 

 

食品と農薬

いつも食べているパンにグリホサートという農薬が検出されたという。

 

量は、1日の許容値の100分の1にも満たないようで、別に問題なさそうだが、元々、この基準自体もどのくらい信用していいかわからない。

 

パブリックに対する疑念を抱き始めると、真面目な人であるほど生きにくい世の中になる。まあ、輸入小麦がダメとなると、食べられるものはだいぶ限られてくるだろう。

 

多少のグレーなところを許容する方が、今を生きやすいのは確かだが、さて遺伝子に対して悪い影響はないのか、などと考えると、自分が食べるのと、子供が食べるのとは意味が違ってくるからやっかいだ。歴史的にも、さんざん消費することを勧めておいて、あれはやばいものでした、と事後的に発表するのがパブリックだ、と思っておいた方がよい。まあ、悪い影響はありうる。

 

汚れに対する概念として、例えばティッシュ一枚にほんの一点の汚れがついていれば、汚れたティッシュと見做されてしまう、ということがある。

 

汚れの物理的量は問題にならない。ゼロか100かの問題になってしまう。

 

これは汚れという概念に当てはまる特徴だと考えていたが、食べ物にも同じことが当てはまる。

 

パンに有害な農薬が含まれている、と言われたら、農薬の量は関係ないのだ。

 

今回名指しで発表された商品は明らかに大打撃を受けるだろう。

 

先に言ったように、自分はOKだけど、他人には食べさせたくないのが、本音だ。

 

それでもとりあえず食べるしかない。できるかぎり、でやっていく。

 

 

廃墟の微笑み

廃墟が静かに微笑んでいるのは、

つくられた関係を失って、自然との関係に戻ったからだ

 

自然の一部であると気づくことは、なにか口元を緩ませるところがある

 

この季節は、日が射す時間が少しだけあるんだ

 

それが待ち遠しい

 

待ち遠しい気持ちを幸せに感じるのは

どのくらいぶりだろう