gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

短距離走の練習

今年も陽向の運動会へ向けて、短距離走の練習をやっている。

 

本番は80m。100mを何度もタイムをとって走らせたが、どうにもタイムがよくならない。

 

そこで、街路灯の距離が6本で100mになっていることに気づいたので、短い距離から走らせることにした。

 

目標タイムが100mで18秒を切ることなので、まずは街路灯2本分の33.3mを6秒を切る練習。これは功を奏して、5秒81というタイムが出た。

 

これなら、陽向も全力をキープできる。

 

今日は、3本分50mを9秒を切る練習。惜しくも9秒08。

 

明日も、50mの練習。9秒を切ったら、66.7mを12秒に挑む。

 

 

 

映画 花とアリス

2004年。岩井俊二監督。

 

女子中学生から女子高校生へ。恋心は本人以外だれにも理解できない。

 

その無方向性ゆえに、恐るべきパワーを発揮する。

 

この監督は、その年頃の美しさを掬い取るのがうまいのだろう。

 

掬い取られた水がきらきらと輝く一瞬を見た想いで、清々しさが残る。

 

いい時間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

誰かの記憶

通りがかりの何かに心を魅かれて立ち止まる

そこには、ぼくとは無関係の誰かの足跡が刻まれている

 

誰かといっても、人とは限らない

鳥や犬や猫かもしれない

 

命があるものとも限らない

風や太陽や雨かもしれない

 

けれど、そこには確実に時間が流れて

今、この姿が在る

 

その時間を愛するから

ぼくはここに立ち止まる

 

 

 

 

 

CADと本質

CADを触りながら思うこと。

 

一つは、ここから人それぞれのニュアンスの違いが出てくるまで使いこなすのはさほど難しくはない、ということ。

 

自分で描く線は一本目からすでにニュアンスの違いが出ているけれど、CADではそのニュアンスは果たして出ることがあるのか、という疑問があったけれど、やはり、うまい人はうまいし、下手な人は下手であることは変わりなく、どこにこだわるか、は操作を重ねるうちに、違いとしてはっきりと表れてくる。

 

この人が描いたものだな、と判別できるレベルにいくまで、そんなに時間もかからない、ということが分かったのはよかった。

 

ただ、CADがつくるものの本質を高めるかどうか、についてはまだ疑問だ。

 

途中で、失敗によって偶発的に現れるかたちを面白いと感じることはある。それが一つの突破口になるかもしれない。

 

 

映画 湯を沸かすほど熱い愛

2016年。中野量太監督。

 

「記憶」について考えていたときに、この映画を観た。

 

人が亡くなるとき、どのようにその人を後世に遺していくか?

 

霊柩車。火葬場。骨を拾い、骨壺へ。

 

その一連の流れをやめて、銭湯を営む家族ならではの方法を考える。

 

お湯が沸くごとに、その人が一緒にいる。

 

すてきだ。

 

 

still life

小さな頃から

 

背景にはいつも水平線があった

 

 

 

病気のときにもらう花は

 

凛として上に向かって伸びていた

 

 

 

そんな思い出の中の水平線と鉛直線が

 

いつしか

 

「時間」と「生命」の軸となって

 

心の中にいつも広がって

 

 

 

そこに

 

時間を止めてしまいたい瞬間たちが

 

たくさん散らばっている

 

 

 

Door ~新しいサロンの古い扉~

古い歴史のある文化の中の暮らし

 

そこに確かに存在した美しさを

 

ただ静かに髪を切ることによって伝えていく

 

 

 

そこには

 

異国から来たという明らかな境界を越えて

 

人との間にあった深い信頼関係や

 

古いものを大切に残しつつ

 

新しい時代へ向かうことによって流れる時間の重層性があった

 

 

 

淡々としていても

 

確かな密度を持った生活の美しさがあった

 

 

 

新しいサロンの入口に 古い扉を・・・

 

 

その扉がぼくの経験した暮らしと

 

ここで実現したい未来を語ってくれる

 

 

Door

30年前に建てられた水産会社社屋の冷蔵庫の扉

フォークリフトか何かがぶつかったのか、扉の下部が水平に少しへこんでいる

 

当たり前のようにそこにあった日常のものが、その役目を終える

 

そして、あとかたもなく消えてしまう

 

ぼくらは、それらにもう一度命を吹き込む

 

それらはどこで、どのように時を過ごしてきたのか

 

知れる限りのことを後世に伝えていく

 

 

未来の生活0514

「未来の生活はどのようになるだろう?」ということより、「未来の生活がどうなればよいと思っているか?」ということの方が大事だと思っている。

 

個人としては、好きなことをやっていたい。そして、みんなが好きなことをやっている未来になれば素敵だ。

 

これに尽きる。あとは、生きていければそれでいい。

 

考えはきっと昔から変わっていないが、実現してこなかった部分も多い。

 

それを実現するために、自分の好きなことを突き詰めようと思う。

 

 

技術は人を勇敢にするか

人工知能、5G、iOTなど、正直な話、1週間前まではどうでもよかった。

 

快適・簡単・便利なものに踊らされる人生にしたくない、と。

 

だが、あるコンペ案を考えるうちに、「技術は人を勇敢にするか」という問いが浮かんできた。

 

つまり、「人は他人(機械)のサポートにより衣食住の心配がなくなったときに、外部に立ち向かうための内部を強めることになるのか?」という問いだ。

 

(ぼくは答えを出そうとしてしまったが、ぼくらのつくるものは問いであるべきだった。)

 

例えば、儲けている会社の社長は内的に強い人間なのか?と想像するのもよい。

 

権力欲とは、善なのか?という問いにも通ずる。

 

けれども、世界の全人口の衣食住が、人間以外の労働によって支えられるとすれば、そもそも格差は残るだろうか。実現すれば、夢のような豊かな世界だ。

 

だが、そうでなければ、失業者が増え続け、世界人口のほとんどが食べていけない時代になる、という真逆の世界が待っている。

 

貧富の差が増大する一方に見える現在は、後者になるのではないか、という不安を掻き立てる。

 

しかし、例えば、自動運転が未完成のときは、運転者は自分で運転するよりもかえって不安に駆られるが、完成すれば、運転者は安心して外の風景を好きなように楽しめるようになるだろう。このように、技術が完成すれば、内的な世界が真逆に変わる。現在は、どんな技術も発展途上の段階だ。

 

ぼくは、外部に立ち向かえることの条件をこれまで考えてきたが、それが最先端の技術とリンクするとはこれぽっちも考えていなかった。

 

これまでも技術は、人の生活を快適・簡単・便利に変えてきた。けれど、衣食住を支えるには程遠い。ぼくらは、かつての時代よりもワーカホリックになっているのだから。

 

技術が飛躍的な発展を遂げた後、ぼくらはどんな目標をもって強くなれるのだろうか?