その空間に近づくと
心のスイッチが入る
光と闇が
重さと軽さが
厚さと薄さが
古さと新しさが
密度の違いを起こして空気を動かす
一陣の風が吹いて
細胞のひとつひとつが覚醒されるのを感じる
その空間に近づくと
心のスイッチが入る
光と闇が
重さと軽さが
厚さと薄さが
古さと新しさが
密度の違いを起こして空気を動かす
一陣の風が吹いて
細胞のひとつひとつが覚醒されるのを感じる
こんなところにも自然の力を感じられる。
勝つことが大事なのではなく、
負けないことが大事だ
決して負けないならば、
きっとよいことも悪いことも経験しながら
生き続けることができる
通りがかりの何かに心を魅かれて立ち止まる
そこには、ぼくとは無関係の誰かの足跡が刻まれている
誰かといっても、人とは限らない
鳥や犬や猫かもしれない
命があるものとも限らない
風や太陽や雨かもしれない
けれど、そこには確実に時間が流れて
今、この姿が在る
その時間を愛するから
ぼくはここに立ち止まる
CADを触りながら思うこと。
一つは、ここから人それぞれのニュアンスの違いが出てくるまで使いこなすのはさほど難しくはない、ということ。
自分で描く線は一本目からすでにニュアンスの違いが出ているけれど、CADではそのニュアンスは果たして出ることがあるのか、という疑問があったけれど、やはり、うまい人はうまいし、下手な人は下手であることは変わりなく、どこにこだわるか、は操作を重ねるうちに、違いとしてはっきりと表れてくる。
この人が描いたものだな、と判別できるレベルにいくまで、そんなに時間もかからない、ということが分かったのはよかった。
ただ、CADがつくるものの本質を高めるかどうか、についてはまだ疑問だ。
途中で、失敗によって偶発的に現れるかたちを面白いと感じることはある。それが一つの突破口になるかもしれない。
2016年。中野量太監督。
「記憶」について考えていたときに、この映画を観た。
人が亡くなるとき、どのようにその人を後世に遺していくか?
霊柩車。火葬場。骨を拾い、骨壺へ。
その一連の流れをやめて、銭湯を営む家族ならではの方法を考える。
お湯が沸くごとに、その人が一緒にいる。
すてきだ。
小さな頃から
背景にはいつも水平線があった
病気のときにもらう花は
凛として上に向かって伸びていた
そんな思い出の中の水平線と鉛直線が
いつしか
「時間」と「生命」の軸となって
心の中にいつも広がって
そこに
時間を止めてしまいたい瞬間たちが
たくさん散らばっている
きっとぼくらが大人になってやらなくなることだ
なぜ社会は、その勇敢な行為を潰していくのだろう
だが、それでもそれを続けてきた人には
道が拓かれているのを見ることもある
四の五の言わず、ただ闘い続けることが大切だ
古い歴史のある文化の中の暮らし
そこに確かに存在した美しさを
ただ静かに髪を切ることによって伝えていく
そこには
異国から来たという明らかな境界を越えて
人との間にあった深い信頼関係や
古いものを大切に残しつつ
新しい時代へ向かうことによって流れる時間の重層性があった
淡々としていても
確かな密度を持った生活の美しさがあった
新しいサロンの入口に 古い扉を・・・
その扉がぼくの経験した暮らしと
ここで実現したい未来を語ってくれる
自分たちが入りたいと思うカフェがない、と、同世代のオジサンたちが言うんです、と。
そんな場所をつくりたい、という方からのカフェの依頼。
とてもスッキリとした動機で、素敵だ。
ぼくは、その中に入っていないと勝手に思っている。
「未来の生活はどのようになるだろう?」ということより、「未来の生活がどうなればよいと思っているか?」ということの方が大事だと思っている。
個人としては、好きなことをやっていたい。そして、みんなが好きなことをやっている未来になれば素敵だ。
これに尽きる。あとは、生きていければそれでいい。
考えはきっと昔から変わっていないが、実現してこなかった部分も多い。
それを実現するために、自分の好きなことを突き詰めようと思う。
人工知能、5G、iOTなど、正直な話、1週間前まではどうでもよかった。
快適・簡単・便利なものに踊らされる人生にしたくない、と。
だが、あるコンペ案を考えるうちに、「技術は人を勇敢にするか」という問いが浮かんできた。
つまり、「人は他人(機械)のサポートにより衣食住の心配がなくなったときに、外部に立ち向かうための内部を強めることになるのか?」という問いだ。
(ぼくは答えを出そうとしてしまったが、ぼくらのつくるものは問いであるべきだった。)
例えば、儲けている会社の社長は内的に強い人間なのか?と想像するのもよい。
権力欲とは、善なのか?という問いにも通ずる。
けれども、世界の全人口の衣食住が、人間以外の労働によって支えられるとすれば、そもそも格差は残るだろうか。実現すれば、夢のような豊かな世界だ。
だが、そうでなければ、失業者が増え続け、世界人口のほとんどが食べていけない時代になる、という真逆の世界が待っている。
貧富の差が増大する一方に見える現在は、後者になるのではないか、という不安を掻き立てる。
しかし、例えば、自動運転が未完成のときは、運転者は自分で運転するよりもかえって不安に駆られるが、完成すれば、運転者は安心して外の風景を好きなように楽しめるようになるだろう。このように、技術が完成すれば、内的な世界が真逆に変わる。現在は、どんな技術も発展途上の段階だ。
ぼくは、外部に立ち向かえることの条件をこれまで考えてきたが、それが最先端の技術とリンクするとはこれぽっちも考えていなかった。
これまでも技術は、人の生活を快適・簡単・便利に変えてきた。けれど、衣食住を支えるには程遠い。ぼくらは、かつての時代よりもワーカホリックになっているのだから。
技術が飛躍的な発展を遂げた後、ぼくらはどんな目標をもって強くなれるのだろうか?